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露天繁止(はんし)ではなく露天繋止(けいし)です。繋ぎ止めることです。
すみません、参考になりました。
葛城がラバウルやニューギニアなど遠方の復員に使えたのも大型艦ゆえ。
確か、葛城の対空砲塔も使用変更と簡略化で雲龍の時の円から六角形になってたらしい
こうして見るとミッドウェーでの主力4空母と300機近くの航空機を一挙に喪失したのが本当に大きかったですね...
空母とすべてが上手く行って航空隊の数が揃っても、まるでBOBのロンドンの進化系のような、空からも艦上からも戦域全部を制する巨大航空防衛網全部を海上で機動させる段階に至っていた米軍と勝負になるとは思えないです。同じ物を作るには人もモノも時間も全く足りなかったでしょうし、その時間をかけてしまったら米側は更に強大なものを投入したでしょうから…
神武作戦は本土から完成している雲龍、天城、葛城に特攻機を載せてフィリピンの米艦隊に特攻させた後。インドネシアのパレンバンへ赴いて当地に居る航空隊の航空機を補充し、艦が使用する燃料の他に枯渇しつつある石油燃料を載せて本土へ帰還するという作戦の予定でした。
一種の北号作戦みたいな感じですね。
@@松尾直-q2j 発艦させた後すぐ退避し回収はしないというとドーリットル空襲に似ている。
雲龍型は飛龍の図面を流用し、艦橋の位置を左舷から右舷に変更した形で進められてます。又、葛城はボイラーとタービンを陽炎型駆逐艦のを流用した関係で速度も若干遅くなってたりします。
如何にも戦争末期といった感じですよねぇ
葛城以降が戦時量産型と思います雲龍はまだ余裕のあった時代の空母
二番目にすきなデザイン、一位はもちろん加賀
「雲竜型」の「竜」が違います。正確には、「龍」です。
海軍省「しかも、雲龍型は6隻中3隻しか竣工しかいません、雲龍型4番艦笠置、5番艦阿蘇、6番艦生駒は建造中止しましたからね。7番艦の鞍馬も建造取り止めでしたし。時期も時期でしたしね」
全部で16隻を昭和25年度までに竣工させる悠長な計画です。
竜くらいどうでもいいだろうそれとも何だあんたは兵学校や士官学校を『兵學校や士官學校』、戦艦武蔵を『戰艦武藏』と指摘してるのかね?絶対にやってないだろう學や藏すら見ずに書けまい
雲龍ってでかくていいよな〜(艦これ)
何処がとは言ってない
どこかの記事で復員船をしてる葛城の広い格納庫で当時有名だったミュージシャンの方がライブをやってみんなを元気付けたってのを見かけた気がします間違っていたらごめんなさい🙏
雲龍型の天城から山岳名になったのは、空母が、大正時代からの「補助艦」扱いから「主力艦/準主力艦」に昇格した結果だと思っています。これが合っているなら、雲龍型に対して主力艦となる改大鳳型は紀伊、尾張、駿河など律令國名だったかも知れません。
●作者さん、今回は音楽の種類も増えていたので良かったと思いました。今回出てきた特攻兵器「桜花」の出撃した作戦の動画も考えてみてください。桜花の製造や設計にかかわった将校もいましたね。大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月23日 - 1994年〈平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者です。実は、桜花は基礎研究では特攻兵器ではなくて、無人の誘導兵器でした。それを強引に人間が操縦する特攻兵器に改造したのが大田さんでした。桜花の着想は、海軍の大田さんが陸軍で母機から投下するロケット推進の有翼誘導弾が開発されているとの情報を得て、製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞き出し、誘導装置の精度が悪く実用化には程遠いと知り、誘導装置を人間に置き換えるのが一発必中を実現する早道だと確信して、東大に足を運んだところから軌道に乗った]。大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった。実験に協力した谷一郎東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。」という。
分かりました。また次回も何かあったらコメントください。
桜花についての補足です。(昭和19年)5月、厚木基地で開隊された第1081海軍航空隊に着任した開発者の大田は、毎日第1種軍装に革靴を提げた姿で出かけていた]。大田は司令の菅原英雄中佐に対して桜花の構想を明かして、菅原司令は任務外の新兵器開発に奔走する大田を黙認して、航空技術廠長の和田操中将に電話で技術上の検討を依頼する。菅原と大田は以前に舞鶴空で分隊長と先任下士官の間柄であった。昭和19年の6月頃に上司の菅原司令の推薦によって、大田は和田中将に桜花を提案した]。航空技術廠三木忠直技術少佐の戦後証言によれば、和田中将はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。和田中将から連絡を受けた航空本部2課長伊東裕満中佐に大田は「私が乗っていきます」と言った。伊東中佐の感想は「これは部外で相当に研究されたものらしい」というものだった。また、「私は大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ちうる者でなくして、必死兵器を進言できる筈がないと思い込んでいたからである。誠に迂濶千万であった。私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現促進に努力する腹を決めた」私は大田をパイロットと思い込んでいた。もし偵察員と知っていたら叱りつけて潰したと思う」と回想している。昭和19年の8月初旬に大田は東京帝国大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所の協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。私案には木村秀政東大講師の風洞実験用木型の設計図と谷一郎東大教授担当の風洞実験データがつけられ、推進装置は三菱開発の呂号薬が採用された。その出来に伊東も驚いたという。大田は第1081海軍航空隊で、下士官、兵のパイロット数十名を集めて「南方戦線について」の戦訓講話を行った。内容は、自分が見聞きしたラバウル、ソロモン、モレスビー方面戦況の実状と米軍の防御力の向上により、日本軍の損害ばかり多く戦果を上げることが困難となってきていることなどであった。次いで「今の戦局を挽回するには1機で1艦を確実に葬るしかないと考え、それには母機から発進してロケット進推進で敵艦に体当たりする飛行爆弾のような有人の小型機しかないのではないかとの考えに至った。これを上申すべく東京に、1番近い部隊に転勤を希望し、軍令部に日参しておったのである。軍令部ではそのようなものを作っても乗る搭乗員がいないと相手にしてもらえない。そこで賛成する搭乗員がいることを証明したいので、貴様達の名前を賛同者として貸してほしい」との趣旨の話を持ちかけ、質疑をする内に賛同者が徐々に増え、それを見た大田は取りまとめを堀江良二一飛曹に託した。堀江さんによれば、自分は偵察員だから、桜花に搭乗することもないと軽い気持ちで最初に署名して回した。すると皆快く署名し、中には血判を推すものまでいたという。昭和19年の8月に最終的に軍令部も桜花を承認して、航空本部は発案者大田の名前から「○大(マルダイ)部品」(○の中に「大」の字)と名付け、研究試作が開始された。自ら乗っていくと言った大田が決定後、「また新しい発明を考えて持ってきます」とケロリと言ったりしたことから、前述の伊東中佐は「あんな奴の提案を採用するのではなかった」と悔やんだという。1944年8月18日大田も航空技術廠付になる。1944年(昭和19年)10月1日に桜花の専門部隊である第721海軍航空隊(神雷部隊)が編成された。大田も隊付となる。1945年(昭和20年)2月15日に第七二二海軍航空隊(龍巻部隊)隊付に異動となった。桜花搭乗員となるべく異例の取り計らいで偵察員から操縦員への転換訓練を受けたが「大田は結局は操縦員としての適性なし」と判断された。1945年3月21日の桜花による初戦果を報じた1945年5月28日の新聞で、大田は「1発轟沈という今次大戦中最高の新兵器は、皇国の尽忠大義に生きるという魂があってこそできる。将兵を必ず死に就かせることに気後れを感じているまでだ。だが戦局は躊躇などしている時でないと考える。」と語っていた。あまりの戦果の少なさから桜花の使用が中止された昭和20年の7月頃、開発者の大田は方々に桜花の使用再開を説いて回ったが、終戦、の直前の昭和20年の8月には、桜花の再使用に耳を傾ける軍関係者は、いなくなった。
桜花の発案者の大田さんの戦後は逃亡人生でした。大田は、昭和20年の8月18日に、茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に突然乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。基地の机に「東方洋上に去る」と遺書を残した。大田は、新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとるようになっていた上に、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も行っていたため、報復を恐れていたという説もある。また、戦犯の認識を勘違いしていたという説もある。1945年9月5日付で722空司令渡辺薫雄大佐から大田の本籍である山口県熊毛郡室津村長へ「海軍軍人死亡の件報告」を送る。行方不明ながらも殉職として大尉に昇進したうえで戸籍抹消扱いとなった。1956年11月20日呉地方役員部作成内地死没者名簿では「航空殉職」「戸籍抹消済」となっている]。しかし、大田さんは逃亡者ながら生存していました。1945年末、静岡県金谷町の海仁会(海軍共済組合)住宅に住む川合誠さんの近所に、安田少佐が大田一家を連れてきて「大田は生きているらしいが、戦犯を心配して逃げ回っているそうだ、宜しく頼む」と川合さんに話した。大田本人も来て「今は樺太の引揚者として別の名前になっている」というので川合さんが、黙っててやるから、今後は別人として、、再度、あんたの妻の時子さんと結ばれるために婿養子「入婿」になればいいと勧めたが、「実は、もう他に女がいます。子供も1人」と大田さんは別の家庭を構築したと答えた。大田は北海道で密輸物資をソ連領に運んでいると言っていた。妻の時子さんは、それでも、2つの家庭をもつ2重生活状態の大田との再会を続けて、3男まで産んだ。しかし、大田さんは妻の時子さんを再度裏切って、再び失踪しています。大田さんは(昭和24年)6月に北海道へ小豆を買いに行くと言って大金を持って消えてからは音信不通になった。そのため妻の時子さんと3人の子女が残され困窮した。前述した川合さんがその面倒を見て恩給扶助料の手配をしたり、捜索願を出したりした。結局は、大田さんは、茨城県の神ノ池基地から離れた洋上に着水し漁船に救助され生還しても、行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて名前を何度も変更しながら別人を装って生き続けていた。戦後は、死亡届が出されていたので無戸籍のままであった]。別人格として「横山道雄」と名乗って、大阪市で、他の女性と家庭を持ち2人の子供を儲けたが、最初の奥さんとの間の子供は連絡もせずに放置したままだった。無戸籍のため職を転々とした。大阪の新しい家族には、自分の正体についてはほとんど語らなかった。1994年12月7日、京都市左京区の日本バプテスト病院にて癌で死亡。墓石には妻の姓のみ刻まれており、大田自身の名は一切刻まれていない。戦後に、大田を追跡調査した作家の秦郁彦は、大田の桜花発案の背後に誰かいると思っていたが、大田探しの過程で彼に対するイメージは少しずつ変わっていき、桜花の着想は大田のオリジナルだと思うようになったという。(ゼロ戦)零式戦闘機に詳しい作家の柳田邦男も「大田少尉は結局は、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂でしかなかったのかも知れない」と著作物で書いている。
@田中一郎 さん、英国海軍には少尉という階級がないそうです。これも、日本海軍の階級と比較すると興味深いですね。
葛城に乗った復員兵が「まだ日本にこんな大型空母が生き残っていたのか!」と驚愕したらしい。
雲龍型は戦時急造艦としては工数が多いし船型が大きすぎた。カタパルトが実用化してたら、もっと小さくて簡略化された空母になっただろうね。まあカタパルトがあれば他の商船改造空母が使えるから雲龍型は要らなかったかもしれないね。
せめて雲龍型空母が1943年半ばまでに竣工していれば艦載機を搭載出来たかも知れない。まぁ無理ゲーだとはわかってはいるけど(泣)
長期戦になったら押し負けることは分かっていたからできるだけ早く講和すべきだった。
半分軽巡で半分空母はダサくない!ロマンだ!
雲竜は、四軸ですけど三軸で良かったのでは?葛城と同じ速度で良かったのでは?と思う。それと、飛行甲板の作り方を縦方式出なく横方式に、米空母と同じ方式にすると良かったのでは?もしかしたら、されていた?横方式 にすると、縦の6ヶ月の期間ではなく三ヶ月で済むと言う。此が、日本空母の修理に時間がかかった理由。設計に手抜きし過ぎで、肝心なところがおかしい。機関を減らしても重心は防御強化で対応すれば良かった。
雲龍型は飛行甲板が板張りではなく鉄板だった様です。
表面はラテックス
エセックス級空母の竣工は、2ヶ月に1隻スパンと聞いたけど・・・確かマリアナ沖海戦に参加したエセックス級は7〜8隻、後はエンタープライズやインディペンデンス級軽空母だよね?
まぁ、いろんな月があるので、
エセックスは月一隻ですよ、確か週一護衛空母もあった、あとは巨大空母ミッドウェー級も6隻建造予定だったですよね
俗に月刊エセックス、週刊カサブランカと昔の軍事マニアから言われてた。カサブランカ級に限らずおびただしい量の商船改装空母を建造したおかげで米軍のほとんどの輸送部隊には航空機が伴ってたそうな。
戦時急増型さえ戦時に量産出来ないんだから結果は当然だよな。
チャンネル登録しちゃいました(´>∀
工業力じゃ無くてマネジメント能力の欠如空母だけ作って航空隊と護衛艦艇は、重巡洋艦の空母化は、護衛艦艇不足を招くな。雲龍は、天山が飛ばせ無いという欠陥が有ったな。
葛城 復員の際にはひどい話があります。
どんなの?
復員兵の食料を充分に与えず横取り?横流し・との動画がありました。
陸軍の桜弾と言うのは初めて聞いた。
雲竜ではなく雲龍だと言いたがる人たちは…『戰』艦武『藏』、士官『學』校って書かない人を指摘してるんだろうな?なんなら『からだ』の字は『体』『躰』『軀』など戦前は約15種類あったが全部意味を説明できるのかね?どうせ意味が通じるのだし普通の日本人なら黙って聞いてあげるのが日本人の『配慮』だよむしろ 学がないのがバレるからやめておけ
大鳳型以降の日本空母はどれも不可思議な沈没、廃棄の運命をたどっている。内通者、工作員がいた可能性がある。
戦時急造なのは天城からだな。雲龍は割と手間暇掛けてる。
雲竜型では無くて、雲龍型です。
のぜ魔理沙ェ…ここの主さんはゆっくりの一次創作までは調べないのですな…
ぜ、ってつけてるゆっくり系統に言ってこいよ
@@cmgdjj22 確かに「のぜ」とつけている一次創作の東方Projectの霧雨魔理沙のキャラを守らない人に言いたいですね。何かいい方法があれば良いですが。
原作一応体験版プレイしたんだぞ
体験版ですか…原作もアニメショップ辺りに置いてあるところもあるので、プレイしてみてください。あと、体験版プレイしておいてキャラが崩壊するなら、オリキャラにすればよろしいかと。
雲龍の漢字が違う
電探は〇〇式ではなく〇〇号ですよ。対空見張り用であれば、21号と13号、水上見張り用であれば22号です。ミッドウェー海戦における空母4隻はすべて味方駆逐艦による「撃沈処分」で沈没しており、爆沈というのは誤りです。また、大鳳はガソリンタンクの隔壁が損傷したことで、漏出したガソリンが気化して艦内に充満(これは第一次攻撃隊発艦を優先し、魚雷命中の衝撃で故障した第1エレベーターの段差を、食堂のテーブルで解消したことで、気化したガソリンが外に出なくなってしまったため)し、大爆発を起こし沈没。また、赤城、加賀、蒼龍、飛竜などの各空母群は、延焼防止のカーテン、泡沫消火の消火装置を備えていましたが、ミッドウェー海戦では格納庫内での爆発エネルギーが最大威力を発揮したため、延焼防止のカーテンはレールが歪み使用不能、消火装置も破損して機能喪失…結果、応急班員が消火ホースを持って飛び込むも誘爆に巻き込まれて次々に戦死しています。
大鳳は着艦失敗事故も爆発の原因らしい
ぶっちゃけ空母余ってない?レイテ沖で囮になった小沢艦隊には、艦載機が乗っていなかったとか聞くし。
連合艦隊の映画では新米のパイロットが瑞鶴から発艦していました。東野英心さんが整備兵に気合を入れていました。
余ってると言うより不要になった。本土が戦場なので、陸上基地の長い滑走路を使えば局地戦闘機や陸軍の重戦闘機も運用できるので十分。性能に制約がある艦載機にこだわる必要も無くなった。もちろん航空機自体不足していたし、搭乗員、整備員、燃料、部品など何もかも不足で稼動率も悪かった。
せっかくかき集めた航空隊も、直前の台湾沖航空戦に抽出されてしまい、また、1からかき集めた為、4隻で100機にも満たなかったとのことです。
一番足りなかったのはパイロットなのかな。ヒヨッコじゃ空母に着艦できない。
雲竜ではなく雲龍型ですよ!きちんと調べてくださいな、こちらは15年以上も日本海軍の艦艇を調べています。
@田中一郎 間違ってんだから当たり前だろ
雲龍型じゃない?
漢字ですか、いろいろな表記方がありますからね(言い訳)
見た目からしてすぐに沈没しそうです。
アメリカ軍わロケットやミサイル鉄の暴風やゼロ戦にわ磁石がエンジンについている。鉄の暴風わプロペラ機にじャクテン。テツ輪プロペラに命中するから欠点
日本語喋れ
露天繁止(はんし)ではなく露天繋止(けいし)です。繋ぎ止めることです。
すみません、参考になりました。
葛城がラバウルやニューギニアなど遠方の復員に使えたのも大型艦ゆえ。
確か、葛城の対空砲塔も使用変更と簡略化で雲龍の時の円から六角形になってたらしい
こうして見るとミッドウェーでの主力4空母と300機近くの航空機を
一挙に喪失したのが本当に大きかったですね...
空母とすべてが上手く行って航空隊の数が揃っても、まるでBOBのロンドンの進化系のような、空からも艦上からも戦域全部を制する巨大航空防衛網全部を海上で機動させる段階に至っていた米軍と勝負になるとは思えないです。
同じ物を作るには人もモノも時間も全く足りなかったでしょうし、その時間をかけてしまったら米側は更に強大なものを投入したでしょうから…
神武作戦は本土から完成している雲龍、天城、葛城に特攻機を載せてフィリピンの米艦隊に特攻させた後。
インドネシアのパレンバンへ赴いて当地に居る航空隊の航空機を補充し、艦が使用する燃料の他に枯渇しつつある石油燃料を載せて本土へ帰還するという作戦の予定でした。
一種の北号作戦みたいな感じですね。
@@松尾直-q2j
発艦させた後すぐ退避し回収はしないというとドーリットル空襲に似ている。
雲龍型は飛龍の図面を流用し、艦橋の位置を左舷から右舷に変更した形で進められてます。
又、葛城はボイラーとタービンを陽炎型駆逐艦のを流用した関係で速度も若干遅くなってたりします。
如何にも戦争末期といった感じですよねぇ
葛城以降が戦時量産型と思います
雲龍はまだ余裕のあった時代の空母
二番目にすきなデザイン、一位はもちろん加賀
「雲竜型」の「竜」が違います。正確には、「龍」です。
海軍省「しかも、雲龍型は6隻中3隻しか竣工しかいません、雲龍型4番艦笠置、5番艦阿蘇、6番艦生駒は建造中止しましたからね。7番艦の鞍馬も建造取り止めでしたし。時期も時期でしたしね」
全部で16隻を昭和25年度までに竣工させる悠長な計画です。
竜くらいどうでもいいだろう
それとも何だ
あんたは兵学校や士官学校を『兵學校や士官學校』、戦艦武蔵を『戰艦武藏』と指摘してるのかね?
絶対にやってないだろう
學や藏すら見ずに書けまい
雲龍ってでかくていいよな〜(艦これ)
何処がとは言ってない
どこかの記事で復員船をしてる葛城の広い格納庫で当時有名だったミュージシャンの方がライブをやってみんなを元気付けたってのを見かけた気がします
間違っていたらごめんなさい🙏
雲龍型の天城から山岳名になったのは、空母が、大正時代からの「補助艦」扱いから「主力艦/準主力艦」に昇格した結果だと思っています。
これが合っているなら、雲龍型に対して主力艦となる改大鳳型は紀伊、尾張、駿河など律令國名だったかも知れません。
●作者さん、今回は音楽の種類も増えていたので良かったと思いました。今回出てきた特攻兵器「桜花」の出撃した作戦の動画も考えてみてください。桜花の製造や設計にかかわった将校もいましたね。大田 正一(おおた しょういち、1912年〈大正元年〉8月23日 - 1994年〈平成6年〉12月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者です。実は、桜花は基礎研究では特攻兵器ではなくて、無人の誘導兵器でした。それを強引に人間が操縦する特攻兵器に改造したのが大田さんでした。桜花の着想は、海軍の大田さんが陸軍で母機から投下するロケット推進の有翼誘導弾が開発されているとの情報を得て、製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞き出し、誘導装置の精度が悪く実用化には程遠いと知り、誘導装置を人間に置き換えるのが一発必中を実現する早道だと確信して、東大に足を運んだところから軌道に乗った]。大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった。実験に協力した谷一郎東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。」という。
分かりました。また次回も何かあったらコメントください。
桜花についての補足です。(昭和19年)5月、厚木基地で開隊された第1081海軍航空隊に着任した開発者の大田は、毎日第1種軍装に革靴を提げた姿で出かけていた]。大田は司令の菅原英雄中佐に対して桜花の構想を明かして、菅原司令は任務外の新兵器開発に奔走する大田を黙認して、航空技術廠長の和田操中将に電話で技術上の検討を依頼する。菅原と大田は以前に舞鶴空で分隊長と先任下士官の間柄であった。
昭和19年の6月頃に上司の菅原司令の推薦によって、大田は和田中将に桜花を提案した]。航空技術廠三木忠直技術少佐の戦後証言によれば、和田中将はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。
和田中将から連絡を受けた航空本部2課長伊東裕満中佐に大田は「私が乗っていきます」と言った。伊東中佐の感想は「これは部外で相当に研究されたものらしい」というものだった。また、「私は大田氏が操縦者であるなしを質さなかった。大田氏自身が操縦者であり、己が真っ先に乗る立場に立ちうる者でなくして、必死兵器を進言できる筈がないと思い込んでいたからである。誠に迂濶千万であった。私は操縦者の意思の代表として、彼の発案の実現促進に努力する腹を決めた」私は大田をパイロットと思い込んでいた。もし偵察員と知っていたら叱りつけて潰したと思う」と回想している。
昭和19年の8月初旬に大田は東京帝国大学航空研究所、三菱名古屋発動機製作所の協力で案をさらに練り改めて航空本部に提出する。私案には木村秀政東大講師の風洞実験用木型の設計図と谷一郎東大教授担当の風洞実験データがつけられ、推進装置は三菱開発の呂号薬が採用された。その出来に伊東も驚いたという。
大田は第1081海軍航空隊で、下士官、兵のパイロット数十名を集めて「南方戦線について」の戦訓講話を行った。内容は、自分が見聞きしたラバウル、ソロモン、モレスビー方面戦況の実状と米軍の防御力の向上により、日本軍の損害ばかり多く戦果を上げることが困難となってきていることなどであった。次いで「今の戦局を挽回するには1機で1艦を確実に葬るしかないと考え、それには母機から発進してロケット進推進で敵艦に体当たりする飛行爆弾のような有人の小型機しかないのではないかとの考えに至った。これを上申すべく東京に、1番近い部隊に転勤を希望し、軍令部に日参しておったのである。軍令部ではそのようなものを作っても乗る搭乗員がいないと相手にしてもらえない。そこで賛成する搭乗員がいることを証明したいので、貴様達の名前を賛同者として貸してほしい」との趣旨の話を持ちかけ、質疑をする内に賛同者が徐々に増え、それを見た大田は取りまとめを堀江良二一飛曹に託した。堀江さんによれば、自分は偵察員だから、桜花に搭乗することもないと軽い気持ちで最初に署名して回した。すると皆快く署名し、中には血判を推すものまでいたという。
昭和19年の8月に最終的に軍令部も桜花を承認して、航空本部は発案者大田の名前から「○大(マルダイ)部品」(○の中に「大」の字)と名付け、研究試作が開始された。自ら乗っていくと言った大田が決定後、「また新しい発明を考えて持ってきます」とケロリと言ったりしたことから、前述の伊東中佐は「あんな奴の提案を採用するのではなかった」と悔やんだという。1944年8月18日大田も航空技術廠付になる。
1944年(昭和19年)10月1日に桜花の専門部隊である第721海軍航空隊(神雷部隊)が編成された。大田も隊付となる。1945年(昭和20年)2月15日に第七二二海軍航空隊(龍巻部隊)隊付に異動となった。桜花搭乗員となるべく異例の取り計らいで偵察員から操縦員への転換訓練を受けたが「大田は結局は操縦員としての適性なし」と判断された。
1945年3月21日の桜花による初戦果を報じた1945年5月28日の新聞で、大田は「1発轟沈という今次大戦中最高の新兵器は、皇国の尽忠大義に生きるという魂があってこそできる。将兵を必ず死に就かせることに気後れを感じているまでだ。だが戦局は躊躇などしている時でないと考える。」と語っていた。
あまりの戦果の少なさから桜花の使用が中止された昭和20年の7月頃、開発者の大田は方々に桜花の使用再開を説いて回ったが、終戦、の直前の昭和20年の8月には、桜花の再使用に耳を傾ける軍関係者は、いなくなった。
桜花の発案者の大田さんの戦後は逃亡人生でした。大田は、昭和20年の8月18日に、茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に突然乗り込んで離陸、そのまま行方不明となった。基地の机に「東方洋上に去る」と遺書を残した。大田は、新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて以来、不遜な態度をとるようになっていた上に、桜花搭乗員の人命を軽視する発言も行っていたため、報復を恐れていたという説もある。また、戦犯の認識を勘違いしていたという説もある。1945年9月5日付で722空司令渡辺薫雄大佐から大田の本籍である山口県熊毛郡室津村長へ「海軍軍人死亡の件報告」を送る。行方不明ながらも殉職として大尉に昇進したうえで戸籍抹消扱いとなった。1956年11月20日呉地方役員部作成内地死没者名簿では「航空殉職」「戸籍抹消済」となっている]。しかし、大田さんは逃亡者ながら生存していました。
1945年末、静岡県金谷町の海仁会(海軍共済組合)住宅に住む川合誠さんの近所に、安田少佐が大田一家を連れてきて「大田は生きているらしいが、戦犯を心配して逃げ回っているそうだ、宜しく頼む」と川合さんに話した。大田本人も来て「今は樺太の引揚者として別の名前になっている」というので川合さんが、黙っててやるから、今後は別人として、、再度、あんたの妻の時子さんと結ばれるために婿養子「入婿」になればいいと勧めたが、「実は、もう他に女がいます。子供も1人」と大田さんは別の家庭を構築したと答えた。大田は北海道で密輸物資をソ連領に運んでいると言っていた。
妻の時子さんは、それでも、2つの家庭をもつ2重生活状態の大田との再会を続けて、3男まで産んだ。しかし、大田さんは妻の時子さんを再度裏切って、再び失踪しています。大田さんは(昭和24年)6月に北海道へ小豆を買いに行くと言って大金を持って消えてからは音信不通になった。そのため妻の時子さんと3人の子女が残され困窮した。前述した川合さんがその面倒を見て恩給扶助料の手配をしたり、捜索願を出したりした。
結局は、大田さんは、茨城県の神ノ池基地から離れた洋上に着水し漁船に救助され生還しても、行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて名前を何度も変更しながら別人を装って生き続けていた。戦後は、死亡届が出されていたので無戸籍のままであった]。別人格として「横山道雄」と名乗って、大阪市で、他の女性と家庭を持ち2人の子供を儲けたが、最初の奥さんとの間の子供は連絡もせずに放置したままだった。無戸籍のため職を転々とした。大阪の新しい家族には、自分の正体についてはほとんど語らなかった。1994年12月7日、京都市左京区の日本バプテスト病院にて癌で死亡。墓石には妻の姓のみ刻まれており、大田自身の名は一切刻まれていない。
戦後に、大田を追跡調査した作家の秦郁彦は、大田の桜花発案の背後に誰かいると思っていたが、大田探しの過程で彼に対するイメージは少しずつ変わっていき、桜花の着想は大田のオリジナルだと思うようになったという。(ゼロ戦)零式戦闘機に詳しい作家の柳田邦男も「大田少尉は結局は、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂でしかなかったのかも知れない」と著作物で書いている。
@田中一郎 さん、英国海軍には少尉という階級がないそうです。これも、日本海軍の階級と比較すると興味深いですね。
葛城に乗った復員兵が「まだ日本にこんな大型空母が生き残っていたのか!」と驚愕したらしい。
雲龍型は戦時急造艦としては工数が多いし船型が大きすぎた。カタパルトが実用化してたら、もっと小さくて簡略化された空母になっただろうね。まあカタパルトがあれば他の商船改造空母が使えるから雲龍型は要らなかったかもしれないね。
せめて雲龍型空母が1943年半ばまでに竣工していれば艦載機を搭載出来たかも知れない。
まぁ無理ゲーだとはわかってはいるけど(泣)
長期戦になったら押し負けることは分かっていたからできるだけ早く講和すべきだった。
半分軽巡で半分空母はダサくない!ロマンだ!
雲竜は、四軸ですけど三軸で良かったのでは?葛城と同じ速度で良かったのでは?と思う。
それと、飛行甲板の作り方を縦方式出なく横方式に、米空母と同じ方式にすると良かったのでは?もしかしたら、されていた?
横方式 にすると、縦の6ヶ月の期間ではなく三ヶ月で済むと言う。
此が、日本空母の修理に時間がかかった理由。
設計に手抜きし過ぎで、肝心なところがおかしい。
機関を減らしても重心は防御強化で対応すれば良かった。
雲龍型は飛行甲板が板張りではなく鉄板だった様です。
表面はラテックス
エセックス級空母の竣工は、2ヶ月に1隻スパンと聞いたけど・・・確かマリアナ沖海戦に参加したエセックス級は7〜8隻、後はエンタープライズやインディペンデンス級軽空母だよね?
まぁ、いろんな月があるので、
エセックスは月一隻ですよ、確か週一護衛空母もあった、あとは巨大空母ミッドウェー級も6隻建造予定だったですよね
俗に月刊エセックス、週刊カサブランカと昔の軍事マニアから言われてた。
カサブランカ級に限らずおびただしい量の商船改装空母を建造したおかげで米軍のほとんどの輸送部隊には航空機が伴ってたそうな。
戦時急増型さえ戦時に量産出来ないんだから結果は当然だよな。
チャンネル登録しちゃいました(´>∀
工業力じゃ無くてマネジメント能力の欠如空母だけ作って航空隊と護衛艦艇は、重巡洋艦の空母化は、護衛艦艇不足を招くな。
雲龍は、天山が飛ばせ無いという欠陥が有ったな。
葛城 復員の際にはひどい話があります。
どんなの?
復員兵の食料を充分に与えず横取り?横流し・との動画がありました。
陸軍の桜弾と言うのは初めて聞いた。
雲竜ではなく雲龍だと言いたがる人たちは…
『戰』艦武『藏』、士官『學』校って書かない人を指摘してるんだろうな?
なんなら『からだ』の字は『体』『躰』『軀』など戦前は約15種類あったが全部意味を説明できるのかね?
どうせ意味が通じるのだし普通の日本人なら黙って聞いてあげるのが日本人の『配慮』だよ
むしろ 学がないのがバレるからやめておけ
大鳳型以降の日本空母はどれも不可思議な沈没、廃棄の運命をたどっている。内通者、工作員がいた可能性がある。
戦時急造なのは天城からだな。雲龍は割と手間暇掛けてる。
雲竜型では無くて、雲龍型です。
のぜ魔理沙ェ…ここの主さんはゆっくりの一次創作までは調べないのですな…
ぜ、ってつけてるゆっくり系統に言ってこいよ
@@cmgdjj22 確かに「のぜ」とつけている一次創作の東方Projectの霧雨魔理沙のキャラを守らない人に言いたいですね。何かいい方法があれば良いですが。
原作一応体験版プレイしたんだぞ
体験版ですか…原作もアニメショップ辺りに置いてあるところもあるので、プレイしてみてください。あと、体験版プレイしておいてキャラが崩壊するなら、オリキャラにすればよろしいかと。
雲龍の漢字が違う
電探は〇〇式ではなく〇〇号ですよ。対空見張り用であれば、21号と13号、水上見張り用であれば22号です。
ミッドウェー海戦における空母4隻はすべて味方駆逐艦による「撃沈処分」で沈没しており、爆沈というのは誤りです。また、大鳳はガソリンタンクの隔壁が損傷したことで、漏出したガソリンが気化して艦内に充満(これは第一次攻撃隊発艦を優先し、魚雷命中の衝撃で故障した第1エレベーターの段差を、食堂のテーブルで解消したことで、気化したガソリンが外に出なくなってしまったため)し、大爆発を起こし沈没。
また、赤城、加賀、蒼龍、飛竜などの各空母群は、延焼防止のカーテン、泡沫消火の消火装置を備えていましたが、ミッドウェー海戦では格納庫内での爆発エネルギーが最大威力を発揮したため、延焼防止のカーテンはレールが歪み使用不能、消火装置も破損して機能喪失…結果、応急班員が消火ホースを持って飛び込むも誘爆に巻き込まれて次々に戦死しています。
大鳳は着艦失敗事故も爆発の原因らしい
ぶっちゃけ空母余ってない?
レイテ沖で囮になった小沢艦隊には、艦載機が乗っていなかったとか聞くし。
連合艦隊の映画では新米のパイロットが瑞鶴から発艦していました。東野英心さんが整備兵に気合を入れていました。
余ってると言うより不要になった。
本土が戦場なので、陸上基地の長い滑走路を使えば
局地戦闘機や陸軍の重戦闘機も運用できるので十分。
性能に制約がある艦載機にこだわる必要も無くなった。
もちろん航空機自体不足していたし、
搭乗員、整備員、燃料、部品など何もかも不足で
稼動率も悪かった。
せっかくかき集めた航空隊も、直前の台湾沖航空戦に抽出されてしまい、また、1からかき集めた為、4隻で100機にも満たなかったとのことです。
一番足りなかったのはパイロットなのかな。ヒヨッコじゃ空母に着艦できない。
雲竜ではなく雲龍型ですよ!
きちんと調べてくださいな、こちらは15年以上も日本海軍の艦艇を調べています。
@田中一郎
間違ってんだから当たり前だろ
雲龍型じゃない?
漢字ですか、いろいろな表記方がありますからね(言い訳)
見た目からしてすぐに沈没しそうです。
アメリカ軍わロケットやミサイル鉄の暴風やゼロ戦にわ磁石がエンジンについている。鉄の暴風わプロペラ機にじャクテン。テツ輪プロペラに命中するから欠点
日本語喋れ